読書

死の教科書ー心が晴れる48のヒントー(書評:ネタバレ注意)

今回は2020年9月に発刊された、五木寛之著 死の教科書ー心が晴れる48のヒントーを紹介したいと思います。

2020年コロナ禍の真っ只中にある現代において、日本人がだれしもが死について考える機会があったと思います。

人間生きている限り必ず死ぬということは自明ではありますが、なかなか日々の生活のなかで「死」というものを現実として実感することは少なくなっていると思います。

戦後、日本人がこれほどまでに自分の命や死というものを考えた時期というのはあったでしょうか?

人が「死」に直面したときにどのように向き合えばよいのか、現代の澪つくしとして、88歳となった著者が助言をしてくれます。

本著は、読者からの48の問いに対して、五木先生がそれに答える形で展開していきます。

一つ一つの問答は数ページで展開していきますので、とても読みやすく、またどこのページから読んでも、五木先生の死に対するエッセンスに触れることができます。

今回は、私が実際に読んでみて、共感できたことをまとめてみたいとおもいます。

現代に必要なのは消えゆく自己のその先の物語ではないか。

いまを生きる人にとって怖れていることは「自己の消滅」ではないか。

だからこと、現代に必要なのは、消えゆく自己のその先の物語ではないかと思うのです。

大河の一滴として海に還ったとき、自己は消滅します。しかし、それは悲しむべきことではない。

生命の海はまるで母親のように、広く、温かく、すべてを包み込んでくれます。

そして、時が来れば、まったく別の新しい生命に生まれ変わって、新しい人生の旅を続ける。

「我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず」まさに人の一生とはこの言葉どおりだなと感じます。

蓮如の『白骨の御文』より

確かなものは何一つない、人の世の無常さを詠嘆する内容で「されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」

「一生すぎやすし、いまにいたりて、たれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず。あすともしらず、おくれさきだつひとは、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり」

人生の目的とは「自分の人生の目的を」探すことかもしれない

人間はこうではなくてはならないという、道徳的な規則などない。あらかじめ決められている法律のような人生の目的というものを私は想像することができない。

要するに、身も蓋もない言い方だが、万人に共通の人生の目的などというものはないと私は思う。

私が至った結論は、人生の目的は「自分の人生の目的」を探すことではないかということです。

自分ひとりひとりの目的、世界中の誰とも異なる自分だけの「生きる意味」を見いだすこと、

禅問答のような奇妙な言い方ですが、「自分の人生の目的を見つけるのが人生の目的である」ということになります。

生きていくのは本当につらい。ときには死んでしまいたくなることだってある。でも。自分で退場するほどひどくはないのではないでしょうか。

ロシアの作家で「どん底」という有名な戯曲を書いた、マクシム・ゴーリキーというひとはこんな言葉を残しています。

「人生とはひどいものだ。本当に残酷で、いいようもなく愚かしく、ひどいものだ。だからといって、自分からそれを放棄するほどまではひどくない」

親鸞は、地獄のような現世を生き、浄土へ往くために、念仏にすがりました。ひるがえって現代の地獄を生きる私たちは何にすがればよいのか。

親鸞が語ったとされる「地獄は一定」という有名な言葉が改めて胸に響きます。「一定」とはたしかなこと、という意味です。

私は、この「地獄は一定」という言葉をはじめて接したとき、切迫した、腹の底から絞り出されたような肉声を聞いたような気がして、一瞬、息が止まりそうになりました。

「一定」とは将来や死んだ後のことではなく「いま」「この現在」ということではないかと感じたからです。

この世のひとりとして、同じひとはいません。どんなに自分が小さな取るに足らない存在に思えたとしても、世界はその小さなあなたがいて成り立っています。

社会の役に立つ人間は立派な人間だから存在する意味があり、社会の役に立たない人間は存在する意味が無いという考え方は明らかに間違っています。

この世にはひとりとして同じひとはいません。どんなに自分が小さな、取るに足らない存在に思えたとしても、世界はその小さなあなたがいて成り立っています。

無名のまま、何も成さずに一生を終えたとしても、卑下することはありません。ほかの人生と比較して、その優劣を考えたり、真似をしたりする必要もありません。

生きた、ということに人間には値打ちがあります。その命は、複雑なこの世界に絶妙な調和でもって自己を保ち、毎日を生き抜いています。

その一事をもってしても、もう十分に意味がある。無意味な存在、無意味な人生などひとつもないのです。

一日一生 こう覚悟して毎日を生きていれば、きっと明日死のうとも、後悔することはないはずです。

人間は「おぎゃー」と生まれた瞬間から死に向かって歩み始めています。この世のなか、当てにならないことばかりですが、「人は死ぬ」という事実だけは100%揺らぐことはありません。

性別や職業も国籍も貧富の差も社会的地位も関係なく、すべての人は必ず死ぬ。死を迎えるまでの時間が、長いか短いかの違いだけです。

今日一日と思って、毎日を生きるしかないと思うのです。明日のことはわからない。だから、今日という一日を大切に生きる。

私自身、あるときから、そう考えるようになり今日まで生きてきました。

朝起きたときには今日も目覚めることができたと感謝して、一日を始めます。

夜ベッドに入るときには、今日もなんとか終えることが出来たと安堵して眠りにつきます。

天台宗の千日回峰行者の大阿闍梨、酒井雄哉さんの著書に「一日一生」というタイトルの本があります。

一日一生。こう覚悟して毎日を生きていれば、きっと明日死のうとも、後悔することはないはずです。

人生の後半期は孤独だからこそ豊かに生きられる。孤独を楽しむ、という気持ちでいたほうがよいと思います。

孤独を恐れたり、不安に感じる必要はありません。人生の後半期はむしろ孤独だからこと豊かに生きられるし、孤独を楽しむという気持ちでいたほうがよいと思います。

それに人間はそもそも独りでうまれ、一時は家族やパートナーとともに暮らすことになりますが、最後はまた独りになります。結局、死ぬときはまた独りぼっちなのです。

以上、いかがだったでしょうか?

五木先生のニュアンスをそのままお伝えしたかったので、可能なかぎり本文を活かして、まとめてみました。みなさんの参考になれば幸いです。

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