自己啓発 読書

大河の一滴(あらすじ):ネタバレ注意

大河の一滴

著者:五木寛之

初版:平成10年4月15日

発行所:幻冬舎

先日とあるテレビ番組で約20年前に出版されていた本書「大河の一滴」が紹介されていました。興味を持ったので、以前父だったか母だったかが読んでいたことを思い出し、実家の本棚から本書を引っ張りだして読んでみることにしました。20年も前の本なのですが、そこに書かれていたのは、今の時代を生きるヒントにつながり、自分自身、共感できることも多かったので、まとめてみようと思います。ちなみに、本書は267ページもありますが、ラジオ深夜一夜物語の部分などは、現代とマッチしないところも多く感じられましたので時間の無い方は、冒頭の人は「みな大河の一滴」「滄浪の水が濁るとき」だけでも読むだけでも良いように感じました。

私がこの本から学んだこと

  • 人間はみな「大河の一滴」であり、特別な自分など存在しない
  • 人生は苦しみと絶望の連続であると肝に銘じる
  • 何も期待しないという覚悟で生きる
  • 「生老病死」生まれたからには必ず老いて、病を得て、いずれ死ぬ
  • 「地獄は一定」世の中はデフォルトで地獄であると諦める

「人生は苦しみと絶望の連続である」(p13~)

人は生きていく中で耐えがたい苦しみや、思いがけない不幸に見舞われることがしばしばあるものだ。まず、人生というものはおおむね苦しみの連続であるとはっきりと覚悟すべきなのだ。むかしの人は、そのことを「人生とは重い荷物を背負って、遠い道のりを歩いてゆくようなものだ」というような言い方をした。たかだが三、四百年の時が経過したぐらいで、人生のありようが変わるはずがないではないか。人生の苦しみの総量は文明の進歩と関係なく一定なのだ。前向きに生きることは悪いことではない。プラス思考でおのれを励まし、人間性を信じ、世界の進歩を願い、ヒューマニズムと愛をかかげて積極的に生きることも立派な生き方である。しかし、一方で現代の人間の存在そのものを悪とみて、そこから出発する生き方もあるのではないか。「人が生きるということは苦しみの連続なのだ」と覚悟することから出直す必要があるのではないか。

「ブッタは究極のマイナス思考から出発した。」旱天の慈雨という言葉があるが、からからにひび割れ、乾ききった大地だからこそ降り注ぐ一滴の雨水が甘露と感じられるのだ。暗黒のなかだからこそ、一点の遠い灯に心が震えるのである。私たちは人生は明るく楽しいものだと最初から思い込んでいる。(中略)「人は泣きながら生まれてくるのだ」赤ん坊の産声は恐ろしくて不安でならない孤独な人間の叫び声なのだ。「泣きながら生まれてきた」人間、「生老病死」の重い枷をはめられた人間。そのような人間の一人としての自分がそれでも豊かに、生き生きと希望をもって生きる道があるのか?人生は苦しみの連続である。人間というものは地球と自然にとって悪をなす存在である。人は苦しみ、いやおうなしに老い、すべて病を得て、死んでいく。私たちは泣きながらに生まれてきた、そして最後は孤独のうちに死んでいくのだ。

なにも期待しないという覚悟で生きる(p18~)

そのような覚悟をもって生きることを著者は述べている。なにも期待していないときこそ、思いかけず他人から注がれる優しさや小さな思いやりが<旱天の慈雨>として感じられるのだ。そこにおのずとわきあがってくる感情こそ、本当の感謝というものだろう。親切になれてしまえば感謝の気持ちも自然と消えてゆく。他者と自分の関わりのなかで、一時的ではあれ連帯感のようなものが成立する瞬間があったとしたら、それは素晴らしいことだ。私たちはそのことを奇蹟に出会ったように感動し、感謝すべきである。そして、この世にはまれにそういう瞬間が成立しうるのだという記憶を深く心に刻みつけておこう。

「小さな人間像への共感」(p20~)

私たちはふたたび、人間はちっぽけな存在である、と考え直してみたい、だが、それがどれほど小さくとも、草の葉の上に一滴の露にも天地の生命は宿る。それから降った雨水は樹々の葉に注ぎ、一滴の露は森の湿った地面に落ちて吸い込まれる。そして地下の水脈は地上にでて小さな流れをつくる。やがて渓流は川となり、平野を抜けて大河に合流する。その流れに身をあずけて海へと注ぐ大河の水の一滴が私たちの命だ。濁った水も、汚染された水も、すべての水を差別なく受け入れて海は広がる。やがて太陽の光に熱せられた海水は蒸発して空の雲となり、ふたたび雨水となって地上に注ぐ。

人間とは常に物語をつくり、それを信じることで「生老病死」を超えることができるのではないか。自殺するしかない人は、そうすればよいのだ。死のうとして死ねないときがあるように生きようと努力してもそういかない場合もあるからである、だが、大河の一滴として自分を空想するようになったとき、私はなにもわざわざ自分で死ぬことはないと自然に感じられるようになってきたのだ。

「地獄は一定」と思いたい(p30~)

「一定」とはいま、たしかにここにある現実のこと、と読む。救いがたい愚かな自己。欲望と執着を断つことのできぬ自分。その怪物のような妄執にさいなまれつつ生きるいま現在の日々。それを地獄という。私たちはすべて一定、地獄の住人であると思っていいだろう。死や、病への不安、差別する自己と差別される痛み、怒りと嫉妬。極楽とは地獄にさす光であり、日々の暮らしのなかでも、一瞬、そのことがたしかに信じられる瞬間がある、それが極楽である。しかし、極楽の時間だけが長く続くことは、ほとんどない。現実に生きるとは、そのような地獄と極楽の二つの世界を絶えず行き来しながら暮らすことだ。そして「浄土へ往生する」という意味は、生前どのような人であったとしても、すべての人は大河の一滴として大きな海に還り、ふたたび蒸発して空に向かうという大きな生命の物語を信じることにほかならない。

「地獄は一定すみかぞかし」(親鸞 歎異抄より)

この「地獄は一定すみかぞかし」という親鸞の言葉の解釈として川村妙慶氏(僧侶)は次のように述べている。地獄こそが最高の居場所であり、極楽の門が開かれているのだから、力を抜いて自分の人生を楽しみみなさい、そうすると地獄であろうと極楽と気にならなくなる。それが気楽ということだ。どんな出来事も「このことには何かある」と自分の人生を愛でることで、地獄と思ったことが極楽に転換していく。

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